熊倉隆敏『もっけ 3巻』アフタヌーンKC

アフタヌーン誌で隔月連載されている妖怪マンガの最新刊。怪(け)の姿を見ることができる長女・静流と怪に憑かれやすい次女・瑞希の姉妹と、様々な怪との交流を、一話完結の形式で描いているものです。
このマンガの特徴は、とてもオーソドックスな教訓物であることです。姉妹は田舎の村で「お爺ちゃん」と暮らしているのですが、このお爺ちゃんという人物が、怪との交流の仕方についてある種の倫理的なスタンスを採ります。多感な年頃の姉妹は怪に多かれ少なかれ悩まされることが多く、その度に、直接的な解決策に頼りたい(つまりいっそ「祓」ってしまいたい)という気持ちを隠すことができません。しかしお爺ちゃんはそれを戒め、怪を解説し、その理解をまず促す。お爺ちゃんの助けを借りながら、姉妹は怪との出会いと別れを通じて、何事かを感じ取り、学んでいくことになります。そして、その根底にあるのは、「ほっとくのが一番なんだ」というお爺ちゃんの言葉(一巻所収「オクリモノ」)が象徴するように、他者を他者として認めながら生きてゆくということです。
1巻では「スダマガエシ」、2巻では「ヒョウタナマズ」などが他者と主題化したエピソードでしたが、3巻では「イナバヤマ」「ダイマナコ」の2話がそれを鮮やかにやってのけています。「イナバヤマ」では、飼い猫の「三毛さん」が姿を消したことをきっかけに、静流は猫の他者性というものをおもいしらされ、その上での態度決定を迫られます。読了後、静かな感動がこみ上げてくるとても素敵なエピソードになっています。あるいは「ダイマナコ」は、一つ目のとても愛らしい、この世から忘れられつつある=消えつつある厄神が、自分が消えるということを新しく再生してゆく喜びとして語りますが、その再生する自分というものも、また他者に他ならないわけです。これまた印象的なエピソードです。
こういった他者との付き合い方を怪を通じて学んでいくのが、思春期の少女であるというのは、とても面白いところです。彼女たちが考えたり感じたりしていることは、おそらく誰もが小学校高学年あるいは中学生の頃に記憶があることだろうと思いますが、それはとりもなおさず、自意識が芽生え、他人と自分との関係について頭を巡らせるということです。そこで自分が肥大したり、他人が抑圧的になったり、様々にバランスが揺れ動いてしまい、下手をすると後々までその人の人生に重苦しい影を落としてしまうこともある。そういった時期に、この姉妹は、怪という象徴的な表現を借りて程よいバランスを形成しつつあるのではないでしょうか。あるいは、逆に言えば、怪とはそもそもそのようなことを可能にするための先人の知恵の発明、つまりアフォリズムであったのかもしれません。このマンガには、甘酸っぱい教訓が沢山詰まっているような気がします。