マルティン・ブーバー『我と汝・対話』岩波文庫

スピッツの「チェリー」という曲に、「「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ」という歌詞があります。この感覚はとてもよく分かります。「愛してる」という言葉をどう受け取るべきなのか。「愛してる」とは、「彼女は、彼女のなかに、自分のことを愛しているという感情を、所有している」ということなのか。ちょっと違うような気がします。それは、言葉が客観的に記述している内容です。
たしかに、言葉はとても便利なものです。言葉は色々なものを整理してくれます。私がここにいて、世界がそこにある。時間があり、空間がある。秩序があり、論理がある。でも、そういう世界だからこそ、なにか寂しい気持ちになったり、自分に全然意味なんてないような気持ちにもなります。その世界は、言葉の内容だけで捉えられた世界です。
言葉は、イコール言葉の内容ではなく、プラスαの部分が付き纏っている。そのプラスαが、人を強く励ましてくれることがあります。
言葉は、あくまでも、どこまでも、誰かによって、誰かに向かって、語られたものです。人間は、語りかけ、語りかけられることを通じて、言葉を覚えていきます。この語りかけの部分こそが、言葉のプラスαです。語りかけるという行為があり、言葉という結果がある。行為「語りかけ」レベルの世界把握と、結果「言葉」レベルの世界把握は、どこか異なっています。異なっているからこそ、「チェリー」の男の子は、たとえ一瞬にしろ、響きによって強くなれたのではないでしょうか。それはきっと、嘘ではなかったはずです。
いったい、二つのレベルの世界把握は、どうして異なってしまうのか。いつから異なってしまったのか。どう異なっているのか。さらには、両世界はどのような関係に立っているのか。こうしたことを考えたいという人に、本書はお勧めです。

ちなみに。ブーバーという人はユダヤ教系の神秘主義者らしいのですが、根源的一者と同一化するとか、一如の境地とか、大我への没入とか、いわゆる「神秘体験」的な世界観には決して組していません。彼は世界の根本的な必要条件として、他者性を導入しています。バタイユはそれを一応示唆しながらも、切って捨ててしまったと思います。個人的には、この他者を前提に考えているところが、僕が本書でもっとも良い(というか単に好き)と思うところです。