「わたおに」プレビュー版フィギュア(『電撃萌王』おまけ)

昨日の話ですが、秋葉原海洋堂で購入しました。いちおう予約しておいたんですが、発売日の翌日なのに店頭にはまだまだ余裕で積んでありました。さすがにリカヴィネの轍は踏めないんでしょう、このぶんなら「わたおに」も相当量出回るんでしょうか。
こうやってフィギュアを目の前に置いてみると、素人目にも良く出来てることが一目瞭然です。かなりあからさまなロリっぷりで、その手の趣味がない僕は罪悪感が沸いてくるくらいですが、それはそれ。身体の線の柔らかさや服の質感までが伝わってくるようで、思わず「ほおー」と唸ってしまいます。それよりなにより感嘆すべきは、アニメや漫画のキャラクター独特の二次元的なリアリティが、見事に立体的に再現できているということ。子供の頃、ガチャガチャとかでドラゴンボールの人形っぽいものを買っては「こんなのヤムチャじゃねえ!」とか散々がっかりさせられた記憶があるのですが、あれは決して原理的に不可能なことだったわけじゃなかったのですね。いやいや、素晴らしいもんです。これで雑誌つきで千円しないとは、いい時代になりました。

スコット・フィッツジェラルドの文章

昨夜の「映像の世紀」の再放送で読まれた文章。2ちゃんねるガイドライン板のスレで発見したので、なんとなく貼って置きます。アメリカの20年代、大衆消費社会が到来しつつある時代の空気をとてもよく伝えている文章だと思ったので。

時代の流れは確実に変わりつつあった。
明るさ・華やかさ・生命力。
そんなさまざまな要素が混じり合いながらそこかしこに溢れ出し
一つの空気を作り上げはじめていた。
この時代ではっきり覚えていることがある。
私はタクシーに乗っていた。
車はちょうど藤色と薔薇色に染まった夕空の下、
ビルの谷間を滑るように進んでいる。
私は言葉にならぬ声で叫び始めていた。
そうだ、私にはわかっていたのだ。
自分は望むものすべてを手に入れてしまった人間であり、
もうこの先、これ以上幸せにはなれっこないのだということを。
スコット・フィッツジェラルド
マイ・ロスト・シティーより

もう一つ。そんな時代のなかでのリンドバーグの偉業についての文章。これもすごい切ないです。

なにか光り輝く異様なものが空をよぎった。
同世代の人々とは何も共通点を持たないかに見えた
ひとりのミネソタ出身の若者が、英雄的行為を成し遂げた。
しばらくのあいだ人々は、カントリー・クラブやもぐり酒場で
グラスを下に置き、最良の夢に思いを馳せた。
  「そうか、空を飛べば抜け出せたのか――」
われわれの定まるところを知らない血は、
果てしない大空になら、フロンティアを見つけられたかもしれなかったのだ。
しかし、われわれはもう引き返せなくなっていた。
ジャズ・エイジは続いていた。
われわれはまた、グラスを上げるのだった。
スコット・フィッツジェラルド
ジャズ・エイジのこだま より

『映像の世紀』再放送

年末恒例になりつつある再放送ですが、何度見ても飽きません。高校のころリアルタイムで見ていたときは、開始5分前にはテレビの前で正座して待っていたような記憶がありますが、今でも僕にとってはNHK最強のコンテンツです。とにかく、ストイックな演出と構成が素晴らしいです。余計なテロップやナレーションを極力排除し、映像自らに何かを語らせようとすることで、「歴史」というものの広大さや不気味さが肌にひしひしと伝わってきます。ちなみに、明日24日放送のタイトルのなかに「噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした」というのは、何か狙っているようないないようなw

今野緒雪『マリア様がみてる』シリーズ コバルト文庫

あまりにも界隈で『マリみて』『マリみて』と騒がしいし、コミケでもスペース取り過ぎだし。まあ一冊くらい、と軽い気持ちで手にとったんですが、この3日間ほど読み続け、現時点で「パラソルをさして」を読了したところ。合計、11冊。つまり、見事なまでにハメられてしまいました。いい歳をして、しかも男である自分が、まさかコバルト文庫に熱中してしまうとは・・・
この小説の魅力は挙げればキリがなくなるくらいありそうですが、とりあえず、その前提条件として物語世界の解像度の高さというものがあるのだと思います。淡いグラデュエーションではなく、輪郭のくっきりしたモザイク状の世界を構成すること。そのために正確な計算を行って、巧妙に仕掛けを配置した時点で、物語をどう展開しようとこの小説の成功は約束されていたはずです。
たとえば、物語が中心的に展開される「薔薇の館」。住人である3人のカリスマティックな生徒会役員「紅薔薇さま」「黄薔薇さま」「白薔薇さま」、そしてその「つぼみ」と「妹」たち。主人公・裕巳は、ここで様々な関係性を生きることになります。同じ先輩であっても直系の「紅薔薇さま」と「白薔薇さま」「黄薔薇さま」との接し方は異なるし、「つぼみ」においてもそれは同様です。あるいは、直系の先輩であっても「紅薔薇」との接し方と「紅薔薇のつぼみ」との接し方は異なってくる。通常の「縦」「横」の関係と、薔薇制度の「縦」「横」の関係が交錯し、こうした公的な次元において裕巳が接する世界は明確に差異化されています。この周到な準備の下に、私的な差異、つまりキャラクターの性格などの特徴が、これまた多種多様な仕方で配置される。この公的な差異と私的な差異が縫い合わされる地点で、登場人物たちはそれぞれ異様なまでにキャラ立ちしてくるのです。こうした世界を分節化する仕掛けが随所に散りばめられています。
どのキャラクターに憧れ、萌え、ハアハアしようと、全てはこの解像度の高さの為せる技。そして読者は、裕巳の視点を借りて、こうして実現された色鮮やかな世界と関係することで、繊細かつ強烈な刺激に次々と襲われることになります。僕は読みながら「うひゃあ」とか「うっぎゃあ」とか叫びながら何度も身悶えしていますが、なんというか、身体のあちこちの突っ突かれているような気がしてなりませんでした。
月並みですが、関係性のめくるめく落差を楽しむという、いわゆる少女マンガの魅力というものを最大限に生かした小説であるということができると思います。ところで、「あずまんが大王」も関係性を楽しむ漫画だったと思うのですが、正直、較べものにならない位の繊細さと強烈さがあります。「あずまんが大王」以上ともいえるこうした世界を、女性のみならず(オタクの)男性も普通に楽しんでいるという状況が現れてきたということは、やはり何か示唆的なものがあるような気がしました。

そんなことよりですね、「志摩子×乃梨子」は最高ですよ。コミケが楽しみ・・・

モーヲタは何故騒がしいか?

日テレの歌番組を見て、つくづく、モーヲタは元気だなあと思いました。一般人の方もたぶんお気づきのことでしょう。観覧席での彼らは、「オイ!オイ!」とコールしたり、ピョンピョン跳ねたり、熱気がテレビのこちら側まで伝わってくるほどの騒がしさなのです。しかも、モーニング娘。だけでなく、他のアーティストの出番でもノリのいいパフォーマンスであるならば、やっぱり騒ぐ。ワッハッハと面白がってくれる人もいれば、うるせーよ歌が聞こえねーよと不愉快になる人もいると思います。半端ながら一応モーヲタの身としては、前者ならば嬉しいですが、後者ならばなにか申し訳ない気持ちにもなります。だから、という訳だけでもないですが、何でこうなっちゃったのかについて、超個人的な偏見と独断で、説明をしてみたいと思います。
そもそも、モーニング娘。のコンサート会場でも、騒がしい人は騒がしいのです。それは当たり前のようですが、ちょっと当たり前ではないのです。その尋常じゃない騒がしさは、騒ぐことを目的としたような騒がしさです。断っておきますと、僕はモーニング娘。のコンサートでは全く騒がない方で、まったりと歌に合わせて体を揺らしたり、ステージや巨大モニターのなかに辻希美さんの御姿を探したり、「辻ちゃん!」と声をときどきかけたりするくらいなので、彼らの気持ちは分かるはずがありません。それにモーヲタの多くはそんなに騒がしい訳でもありません。ただ、騒がしい人たちが一部いて、彼らはそう見えるということです。騒ぐために、騒ぐ。面白いことに、彼らはステージもモニターも見ていません。たぶん、歌も聞いていません。むしろ、体を激しく動かす、声を大きく上げる、ということ自体を目的としているようです。好例なのは「マワリスト」と呼ばれる人たちで、彼らは両手を叩き、ジャンプしながらグルグルと周り続けています。他にも、相当な体力を消耗しそうな「体操」のような動きをしている人もいます。そんなステージと観客席の彼らの関係は、クラブのDJとフロアの客に喩えることができるような気がします。視線がステージの集中化されることはなく、めいめいが自由に、孤独に身体的な気持ちよさを求めている、そういう風景です。
なんでそうなっちゃったのかというと、これは実は単純なことだと思います。モーヲタにはどういう訳か、コンサートのリピーターが多いのです。横浜アリーナで二日間、昼夜2回で合計4ステージ、ぶっ続けで「参戦」という人も決して珍しくないです。それどころか、日本全国、長い「遠征」の旅の果てに、鹿児島で締める、みたいな人も少なくないわけです。では、そんなに面白いステージなのかといえば、たぶん面白くない。面白くないどころか、MCからショートコントもどきまで全てが、ほとんど同じ。あたかも学芸会のように、きっちり台本通りに進行します。それでもコンサートに通う心理は、僕にはよく分からないのですが、たぶん「愛」なのでしょう。このステージのレベルと彼らの「愛」とのギャップの結果が、あの騒がしさなのだと思います。ステージなしで、いかに、それなりに楽しむか。そこで自己完結的に発散できる身体運動が見出されたのではないか。そういう熱心なモーヲタは、当然のように歌番組の観覧にも駆けつけるはずだし、多数のとくに興味のないアーティストも登場するその場において、ついついどういう行動に出てしまうかということも容易に想像できます。
だから、どう、という結論も付け足すこともできませんが、僕は、個人的には見ていて楽しいから、もっと頑張れーという感じでコンサート会場やテレビの前で見守っています。それにしても、こういうアイドルグループのファンっていうのも珍しいんじゃないでしょうか。ロックのコンサート同様、というか教会で説教する聖職者同様、アイドルはそもそも「カリスマ」であるはずですから。モーヲタモーニング娘。との関係性が、一般的に思われているほどベタではないことを如実に示している現象だと思います。

(もう一度断りますが、あくまで僕にはそう見えるし、僕はそう思うという説明です。ステージは何度見ても面白いし、マワってても勘所ではちゃんとステージを見るし歌にも聞き入ってるよ、という人もきっと居ると思います。ただ、僕がこういう傾向があるかもなーと思ったことなので、そのまんま受け取らないで下さいな)

“古舘ステーション”に長野智子さん

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2003/12/13/01.html
今知りました。たしかにTBSラジオのアクセスを聞いてると、頭の回転の速さは恐ろしいほどのものがある人だし、適任といえば適任だと思います。ただ、問題は、彼女は典型的なオバサンだってことです。とにかく若者の最近の傾向みたいな話題になると、滅茶苦茶否定的な態度をとる。しかも単なるオバサンではなく、いわば自分が青春時代を送った「80年代」オバサン。私が大学生の頃は〜〜でそれって当然じゃないですか、みたいな話をして、バブル直前の雰囲気を押し付けてくる。ときどき宮崎哲弥氏が同年代のはずなのにさすがに辟易してる様が、聞いてる分には面白いんですが、あれを毎晩テレビで見せられると思うとちょっと嫌です。そういや前に、ひきこもりの話題で斎藤環先生を呼んで番組をやったとき、そのあとHPにアップされた宮崎・斎藤・長野のちょっとした対談コンテンツの話題が「オタク文化」ってなことがあったんですが、そこでも彼女のオタクの蔑み方は尋常じゃなかったです。つまり、全ての基準がもろに、社会的な価値体系そのまんま。ああ、嫌だなあ。

広江礼威『ブラック・ラグーン1』『ブラック・ラグーン2』サンデーGXコミックス

スーパークールにして、スーパーフリーなマンガです。会社のヤヴァイ仕事の遂行中に、マフィアの運び屋の船に拉致られた主人公。あっけなく会社に見捨てられ、ひょんなことから運び屋のピンチを救ってしまって、その一員になることを決意。銃やバズーカがバッキュン、ドッカン、ドガガガーンと炸裂しまくり。運び屋の一人はグラマー過ぎる体を、マイクロホットパンツとタンクトップに隠したじゃじゃ馬女。そして目の前には、どこまでも続く、青い海と空。これで男のロマンを擽られなければ、嘘です。
男にとって「暴力」と「性」は、無限の「自由」を感じさせます。血と硝煙の匂いのたちこめる中の、ギリギリの緊張感と集中力。あけっぴろげな肢体を前に、下腹部から噴きあがってくる欲動。自分の目の前に、いつもいつもボケっと立ち尽くしている陳腐な「自分」も、銃と女の前では徹底的に無力です。俺よ、再統合せよ! そして、全存在をあげて、ぶっ放せ! キスをしろ! 押し倒せ! それが「自由」ってもんじゃないでしょうか。
思えば最近、ふにゃふにゃと「萌え」に偏りすぎた生活を送ってきたような気がします。「萌え」は「萌え」でとても心地いいんですけど、どうも腹に溜まります。誰かが言ってたような気がしますが、たしかに「萌え」はどこか、自分で自分のペ○スを愛でるような感覚がある。何処にも出発する必要はないけど、何処にも出発できない感じ。ウロボロスの蛇さながら、自分で自分をくわえ込んでる感じ。この自家中毒から、たまには「外」を指して出ていきたくなります。そんな自分の頭にもう一つ「尻の穴」を増やして欲しいと人には、断然、お勧めです。軍事関係は詳しくなくても、きっと「燃え」ます。個人的には、とくに、ホットパンツ!!